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「自分のために生きていけるということ」を紹介①


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今回の記事では、タイトルが印象的な「自分のために生きていけるということ」という本を紹介します。多くの方にとって「他人のため、社会のためになることをしよう」というメッセージの方が、耳慣れたものかもしれません。

しかしこの本では、自分の本当の欲望に気付いて、「自分のため」に生きはじめることが大事と説かれています。

人の顔色をうかがいやすい、自分のためのエネルギーが少ないと感じている方に、おすすめしたい本です。私自身、読んでみた時、ハッとする箇所が色々とありました。

本を紹介するにあたって

著者である斎藤学(さいとうさとる)さんは、「嗜癖(依存症)」研究の第一人者です。現在は「家族機能研究所」の代表をされています。「アダルトチルドレン」や「共依存」という概念を、日本に紹介した人としても有名です。

この本は「退屈」「寂しさ」という感覚について、斎藤さんがインタビュアーからの質問を受け、それに答える形で話が進んでいきます。色々な話題が取り上げられていて、内容はボリュームたっぷりです。ただインタビューという形式のためか、話の筋道が少し分かりにくく、話が前後している部分もある印象です。

まず「退屈」「寂しさ」と「嗜癖」の関係について語られますが、初めて読んだ時、こちらの部分が理解しづらかった記憶があります。そこで本の紹介をするにあたり、私なりの解釈を加えて、最初の内容をつかみやすいようにまとめてみました。

本に興味をもつ、きっかけになったら嬉しいです。

生きているのが当たり前になった現代

まず、インタビュアーの「毎日が退屈だが、どうしたらいいか分からない」「嗜癖とは何なのか?」という質問から始まります。

アンサーとして、毎日することがたくさんあっても、たとえスケジュールがぎっしりと埋まっていても、退屈や寂しさを感じることはありえるそうです。忙しく働いている中で、ふと「こうした毎日でいいのだろうか?」「何か面白いことはないか?」「なんとなく寂しい」、といった感覚を持った経験がある方も多いのではないでしょうか。

そうした感覚が出てくる原因の一つとして、現代は昔に比べて生きるのが楽になったから、生きているのが当たり前になったからと述べられています。

本では「七五三」という行事を取り上げて、説明していました。七五三は、子供が三歳、五歳、七歳になったことを祝うものです。昔はその年齢まで生きられる子供が少なかったことから、無事に成長できたこと自体がお祝いの対象となってきました。

現代でもこの行事は行われていますが、昔とはだいぶ感覚が違っているのではないでしょうか。

生きているのが当たり前になったことは、喜ばしいことだと思います。ただその反面として退屈や寂しさを感じやすくなり、ただ生きているだけでは充実感を得るのが難しくなりました。

本では、生きているのが当たり前になったことで、現代の私達は「生きる意味を見いだす」という別の苦悩を背負うことになった、と述べられています。

耐えがたい寂しさをごまかすのが嗜癖

2つめの原因に移ります。退屈や寂しさというのは原初の人間関係、主に母と子の関係に関わるもので、育った環境によって感じ方に大きな差があるそうです。「承認欲求」という言葉がありますが、それがどれくらい満たされているかの差とも言えます。

「承認欲求」とは、他者から認められたい、評価されたいという欲求のことです。母親からありのままの自分を認めてもらえていれば、それが満たされていると言えるでしょう。もし条件付きでないと認められなかった場合、例えば「いい子」の時だけ認められた場合は、承認欲求があまり満たされていないでしょう。

一つおさえておきたい点として、完璧な親というのは存在せず、承認欲求や幼児的願望(甘えの願望)が完全に満たされた人は存在しないということです。だから健全に育った人であっても、ある程度の寂しさをもっているのが普通です。

問題になるのは、機能不全な家族のもとで育った人、例えば「アダルトチルドレン」と呼ばれるような人たちです。彼らは、承認欲求や幼児的願望がほとんど満たされていません。そのため「自分はダメだ」というとても否定的な自己感を持っており、耐えがたい寂しさなどの心の問題を抱えて生きることになります。

ちなみに「機能不全な家族」とは、家族が本来持つ機能がいちじるしく働いていない家族のこと。「アダルトチルドレン」は、機能不全な家族のもとで育った人が、自分の生きにくさの理由を自覚するために使われる用語です。

親からありのままの自分を受け入れられず、いつも誰かと比較されたりしていると、本当の自分ではダメなのだと感じ、心に寂しさを抱えてしまうというのは理解できるのではないでしょうか。

本の中では寂しさを、健全に育った人がもつ「大人の寂しさ」と、アダルトチルドレンなどがもつ「耐えがたい寂しさ」に分けてとらえています。そして嗜癖にはしってしまうのは「耐えがたい寂しさ」を抱えている人たちです。

耐えがたい寂しさは内面をつき動かすとても強い衝動であり、ただやり過ごすこと、ただ耐えることは困難です。その衝動をなんとかごまかし、なんとかやり過ごす方法として「嗜癖」が出てきます。

嗜癖は真の欲望のすり替え

嗜癖には、「物質嗜癖」「プロセス嗜癖」「人間関係嗜癖」の3パターンがあります。「物質嗜癖」は、食べ物、アルコール、薬物などの物質を体内に過剰に摂取する嗜癖。「プロセス嗜癖」は、ギャンブル、買い物、仕事など特定の行為にはまりこむ嗜癖、「人間関係嗜癖」とは、人間関係にはまりこむ嗜癖(共依存など)です。

楽しくお酒を飲んでいるうちはアルコール嗜癖ではなく、それなくしてはいられない、自分でコントロールできないなど、何かに依存して抜けられない状態のことを嗜癖と言うそうです。

嗜癖は快楽を与えてくれます。しかし代替の行為、すり替えの行為であるため、本当の充足感は得られません。そのためもっともっとと欲求がエスカレートしていく、という問題をはらんでいます。

嗜癖にはまりこまないためには、自分と向き合って本当の欲望を見つけだし、それを充足していく必要があると述べられています。

ただ問題は、自分の本当の欲望や気持ちが、分からなくなっている点にあるようです。

どうして自分の本当の気持ちや欲望が分からなくなってしまうのか?

両親の不仲、家庭内の緊張、ネグレクトなどが子供のまわりで起こっている場合、それを「自分が悪い子だから」「自分のせいなのだ」と受け止めてしまうそうです。そして家庭内の調和を取り戻すため「いい子」にならなければと感じ、どうすれば親に認められるだろうかと、顔色をうかがうようになります。

そうした適応をしてきた人は、社会に出ても重要な誰かの期待に沿うべく努力してしまいます。するとだんだん自分の感情が分からなくなってしまい、何をしたいのかが分からなくなってしまうとのことです。

「私はこうしたい」という自分の「I want」を優先せず、他者の顔色をうかがって「~するべき」「~した方がよい」を優先していると、自分の感情や欲望が分からなくなるということでしょう。

また日本の会社にも、日本の家族がもつ特徴と似た部分があるようです。

この本が書かれたのは1997年なので、状況は少し違っているかもしれません。しかし一時期、「空気をよむ」「同調圧力」「忖度」といった言葉が話題になりました。いずれの言葉にも、人の顔色をうかがうニュアンスが含まれていると思います。日本の社会に長く残っている、特徴的な部分と言えそうです。

こうした問題点を踏まえて、斎藤さんは次のように述べられています。

自分の主体性を取り戻そう、ということでしょうか。

まとめ

ここまでの内容をまとめてみます。まず生きているのが当たり前になったことで、退屈や寂しさの感覚を感じやすくなっているのが、現代の特徴でした。

またゆがんだ家庭や社会に適応するため、顔色をうかがって他人のために生きていると、自分の本当の欲望が分からなくなってしまうとのことでした。自分の欲望が分からないと、正しくそれを満たすことができません。欲望がきちんと満たされないと、退屈や空虚感、寂しさを強く感じるようになります。

程度がひどくなると耐えるのが困難なほどになり、それをごまかすため「嗜癖」という問題行動にはしる人達が出てきてしまいます。自分の人生を取り戻すためには、自分の本当の欲望に気づき、まず自分のために生きはじめることが大事ということでした。

自分なりの解釈を加えて説明してみましたが、どうでしょうか? この部分の内容をおさえておくと、この後の内容が頭に入ってきやすいと思います。

ここで一旦区切って、次の回ではこの後に述べられる内容から、ポイントになる部分をもう少しだけ紹介してみたいと思います。

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